本校の生徒歌は昭和37年7月9日に、校歌は同年9月1日に制定されました。
作詞 稲員 仁郎 作曲 滝本 泰三 一 銀杏城の 楠若葉
阿蘇の深山の 竜胆の
星は移りて 人かはり
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「生徒歌はもともと開校記念式典歌となづけられていた。入学式、並びに開校記念式典に校歌が間に合わない場合を想定して、稲員仁郎氏が作詞され、滝本泰三氏(当時熊高教諭)が作曲されたものである。そして昭和三十七年七月九日の職員会議で生徒歌として誕生する。」
『第二高等学校 二十年史』より
作詞 上田 英夫 作曲 出田 憲二 一 二 三
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上田英夫(1894~1978)
兵庫県生まれ 国文学者 歌人 大正9年東大国文科卒 同10年五高教授 昭和24年 熊大法文学部教授となり、34年退官、熊本大学名誉教授となる。 「万葉訓点の史的研究」で文学博士 「源実朝」 歌集「早春」などの著がある。県下高校の多くの校歌の作詞を手掛ける。 第二高校校歌は昭和37年初代校長広永政太郎先生が恩師である上田先生に生徒綱領をおりこんで作詞されるよう依頼したことによって実現した。
出田憲二(1923~2010)
熊本県御船町生まれ、作曲家。昭和20年北京市北京音楽学院卒。 昭和24年NHK熊本放送交響楽団入団 昭和31年熊本県警察音楽隊初代楽長。昭和35年熊本交響楽団設立・代表指揮者。同年熊本国体時に「熊本県民の歌」を作曲。昭和47年御船学園設立・理事長、熊本音楽短期大学学長。元平成音楽大学理事長。県内の学校の校歌の作曲を手がける。出田氏は広永校長の御船時代からの知り合いで、勇壮な行進曲風のファイトのわきたつようなメロディをという願いで実現した。
漠々たる碧落の下 |
【碧落(へきらく)】 青い空、大空、はるか遠い所
【旌旗(せいき)】 はた、のぼり
【西陲(せいすい)】 西の果て
【澆季末世(ぎょうきまっせ)】 人心が濁り、道徳が廃れて人情や風俗が乱れた末の世のこと
【朴訥(ぼくとつ)】 かざりけがなく、口数が少ないこと
【銀杏城】 熊本城の別名
【アイン! ツヴァイ! ドライサー!】 ドイツ語で「1! 2! 3!」
校章は学校のシンボルであり、校風の象徴とも云われる。決定にあたって「二」の字を入れるか、入れないかが大きな問題となったが、あとあとの事を考えるといれない方がよいということで「高」の字だけとなった。 また現在の校章と同時に、今一つの案があったことを御紹介しておこう。それはすくすくと育ちゆき、これから先の生成発展にあやかるため、二子葉を三つに組ませたものに「高」の字を配したものであった。しかし将来、校地が二の丸に固定できるかどうかもわからず、校章を着用する若い生徒達の好みもあり、結局県花である阿蘇の「りんどう」の花に落ち着いた次第。自主自尊の芯の強い人物の養成を期しているので、風雪にたえて花開く「りんどう」の花で、強さと清純さを表したのである。打抜きにした銀色の花弁の上に金色の「高」の字を浮かしてある。
『第二高等学校 二十年史』より
〒862-0901 熊本県熊本市東区東町3-13-1
TEL:096-368-4125 FAX:096-365-5636
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